2009年02月03日

せっかくなので

猿で続く。

作並で猿は身近である。身近と言うにはあまりに身近すぎて、時に人間との摩擦も起きる。湯に浸かり、骨も外れよとばかりに手足を伸ばして外を眺めると、ガラス越しに猿と目が合ったなどと言うのは、人間と猿との微笑ましいエピソードである。できることならそのままの関係で末永く付き合っていきたいのだが、彼らはその境界線を軽々と飛び越えてくるから摩擦が起きる。
猿は平気で引き戸を開ける。日光の野生猿たちが土産物屋に侵入する姿が度々放送されるが、あの程度は彼らにとっては造作もないことである。引き戸であれば、シャッターですら障害にはなりえない。彼らは簡単に侵入してしまうのだ。しかしそこは猿である。開けはするが、閉めていくことはない。礼儀は知らないようである。

猿が侵入した家内は無残なものである。麗らかな昼下がり、「あれおかしい。今朝方、去年死んだおとっつぁんにぼた餅供えたはずなのに、どこさいったべ。ぼた餅。」とヨネ婆さんが訝しがって辺りを見れば、四方八方にアンコがぶっ散らばっている、と言うことになる。実際、供え物から花にいたるまで、齧っては捨て齧っては捨てを繰り返し、挙句玄関に自らの分身をお供えして立ち去る不届きものもいるらしく、後に家人はその地獄絵図を目の当たりにして大きな溜息をつく。

昔からマタギは、熊と同様猿だけは侮らなかったものである。猿は何だってできるのだ。猿たちは人間の日常の行動を見て、その通り真似をする。猿真似とはよく言ったものだ。猟師たちは、猿を撃つのを嫌がる。猿が追い詰められたときの仕草は、人間そのものなのだそうだ。
彼らは銃を向けられた瞬間、手を合わせて慈悲を請う。母猿は子猿の前に盾となって立ちはだかり、悲しげな眼差しを送る。これら仕草まで人間の姿を学習することによって得たものかは定かではないが、こんなものを見せられて躊躇うことなく引き金に指をかけられる人間はいない。

現在のところお客様のご協力もあり、作並においては人間と猿の間で際立ったトラブルはないものの、いつ「北限の猿」と同じようなトラブルにいたってもおかしくない状況にある。作並が自然豊かであるのにこれと言った地場産品がない原因の一つは、明らかに「猿害」がある。これに最近は「猪害」が加わり、これもまた問題が深刻化しつつある。
いくら丹精込めて作物を作ったところで、現状では彼らの胃袋を満たすことが大半である。人間より旬を理解している彼らは、収穫の期待を胸に気持ち良く目覚めた人間を落胆の深みへと突き落とす。右に一本、左に二本、もぎたてのトウモロコシを抱えて走り去る後姿は、古き懐かしコソ泥を彷彿とする姿であり、笑っちゃいけないが死ぬほど可笑しい。
笑っている場合ではない。やはり、我々と彼らは手に手を取り合って歩むほど近しい存在になってはいけないのだ。彼らとの関係は、遠くにあっても常に一瞥をくれるくらいが調度良い。現在の不自然な関係は、彼らに原因があるのではない。いつの時代も人間にあるのだ。ただし俗に言う人間による動物の生息域への侵入や破壊が、この場合にあたるかと言えば決してそうとは思わない。原因は正反対のところにある。



Posted by 作並 at 07:14

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