情報はなく・・何が起こっていたのか?
続きは私が・・・・・・
作並温泉のお宿さんにもお客様が宿泊されていて
各お宿さんでも対応に追われていました。
交通網はマヒですし、電気(全面)、ガス(一部)、水道(一部)ままならない
日常はそこになく、どうして良いのかわからない状態のまま
日が暮れようとしていました。
明日になれば・・・きっと大丈夫・・・と。
まさか、本当にまさか・・・・・沿岸部で大津波での人命が失われているとは思わず
自分たちの事で精いっぱい、明日は大丈夫だろうか・・・・と思っていたのですから。
私が事態を知ったのは、
個人差もあるのでしょうけど、聞くだけのラジオがほとんど。
「沿岸部に・・・・」とラジオから流れたのを聞いてぎょっとしたのと
初めて事の大きさを感じた瞬間でした。
当時は仙山線がけ崩れの為4月末まで不通になりました。
(一部区間は開通したものの・・・・・・)
被害が少ない地域の自分としては、まず生きること・・・・。
それだけを思い、時間を過ごしていたような・・・・・。
実はその時の事は、断片的にしか覚えていないのです。
記憶があいまいで・・・・・。
子どものときに宮城県沖地震、被害の多かった地区に
住んでいた自分は、よみがえる恐さと異常事態になるであろう世の中を
考えただけで・・・貝になっていたのかも知れません。
この地域でも、地滑りで自宅を離れなければならなくなった方もいます。
この地域からそう遠くない小学校は いまだに仮設校舎でお勉強です。
たくさんの命とたくさんの笑顔と日常が失われ
たくさんの涙が流れていることは、決して忘てはならないことです。
それが過去の事ではなく、今もなお続いていると言う 事も・・・・。
一年前・・・ふうにんさんが誕生・・・と、ともに
よみがえる辛い思いが・・・・あります。
だけど、私はふうにんさんに助けられているのです・・・。
ふうにんさんは、よく悪ふざけします、でも・・・・。
いつも笑顔になることをしてくれているので・・・・。
ふうにんさんの誕生は、作並にとって明るい笑顔を
振りまいてくれるのかな?と一人思っています。
あらためて、
震災でお亡くなりになられた方々へ哀悼の意と、
大切な方をなくされたご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。